築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に青景秀通によって築かれたと云われる。 青景氏は藤原秀郷の後裔を称し、平安時代後期に長門国へ下向した。
源平合戦の時、秀通の父秀清と伯父秀盛は平家側に従い、秀通は源氏方に属した。源氏の勝利に終ると、秀通はその恩賞として旧領を宛がわれたが、秀通は父秀清と伯父秀盛の助命を嘆願した。伯父秀盛は誅せられたが、父秀清は助命され美禰郡青景と上桑名の地を与えられた。
天文20年(1551年)大内義隆が家臣陶晴賢に討たれた時、同族の青景隆著とともに当主隆時も陶氏に与した。その後、陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に敗れると、長門国に侵攻した毛利氏にはばかって青景の名を廃し、室田・門田・郷谷などを名乗ったという。
青景城城は北の山塊から南から張り出した尾根の先端に築かれている。また、その南方に比高10mほどの独立丘陵があり、この部分が前城とされる。
前城は石灰岩の塊で、現在はその上に荒神社が奉られている。その背後の岩には「忍者穴」と呼ばれる穴が空いており、背後に回ることができる。明瞭な城郭遺構は存在しないが、完全に独立した急峻な小山であり、砦としては十分であろう。
前城から田畑を挟んで北にあるのが本城で、南面と西面は石灰岩で急傾斜となっている。 南端最高所が主郭となるが、一番高いところから南側一帯が石灰岩の塊になっており、ここから北に向かって緩やかに傾斜する。片側の鞍部に幅広の堀切があり、それに面して帯曲輪IIがある。
前城の神社の隣に殿河内集会所があり駐車可能である。本城は西側にある民家の奥側から山に入ると堀切に至る。
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