築城年代は貞嘉ではないが鷲頭弘忠によって築かれたと云われる。 鷲頭氏は大内氏の庶流で大内盛房の三男盛保が周防国鷲頭庄を領して鷲頭氏を称したことにはじまる。
永享4年(1432年)鷲頭氏五代鷲頭弘忠は大内持世によって長門守護代に補任され、長門国深川に移り住んだ。
嘉吉元年(1441年)大内持世が没して教弘が家督を継ぐと、文安3年(1446年)には長門守護代を罷免され内藤有貞が新しく守護代に補任された。弘忠は大内教弘に攻められることを想定し、北の深川湾に亀山城、南の美禰側には堅田城、沢差城、岩尾城などを構えて防戦体制を敷いた。文安5年(1448年)大内教弘は美禰方面から深川へ侵攻し、堅田城や沢差城を攻め落として深川城へ押し寄せ、鷲頭弘忠は討死、嫡男弘貞をはじめ一族郎党が討ち取られた。
深川城は標高231mの山頂に築かれている。 遺構は山頂部に小さく二段になっている主郭がある程度で、北、南、西尾根を確認してみたが、堀切も見あたらない。
大内義隆最後の地として有名な大寧寺はこの鷲頭弘忠によって建立された寺院で、大内義隆主従の墓、鷲頭弘忠墓や関東管領上杉憲実の墓もここにある。
この深川城の近くに鷲頭弘忠主従の墓として十八基の五輪塔群が残されているはずなのだが、小河内・殿台付近で数人の方に場所を聞いても誰一人存在すら知らなかった。
道はない。北西の尾根先にある鉄塔へは北西麓の小河内から道がある。そこから山に取り付くことはできるが、動物除けの柵が巡らされておりこれを越えなければ行けない。
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