築城年代は定かではない。一説に永仁年間(1293年〜1299年)沼館愛三によって築かれたとも云われるが、一般的には文安年間(1444年〜1449年)はじめに牛越上総介定綱によって築かれたと云われる。
文安2年(1445年)牛越定綱は謀叛によって相馬高胤に滅ぼされた。その後、相馬氏は城番を置いて番城としていたが、慶長2年(1597年)牛越城を改修して小高城より居城を移し城下町を整備した。はじめ小高城より村上城に移る予定であったのが、移転直前に火災により焼失したため、牛越城に移った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において相馬義胤は中立の立場であったが、慶長7年(1602年)徳川家康より突如改易を申し渡された。しかし同年10月改易は取り消され、義胤の嫡子利胤をもって宇多郡・行方郡・標葉郡の三郡を再支配した。牛越城を不吉と見た相馬氏は居城を再び小高城に戻し廃城となった。
牛越城は水無川の北岸にあり、東西に長く伸びた丘陵の東の先端部に築かれている。
主郭は山頂にあったがここには現在水道施設が建ち破壊されている。主郭から空堀を挟んで西にあるのが二の丸、東にあるのが東で、南北の中腹に帯曲輪がある。
二の丸の西には深い堀切が南北に走り、南側は一度東へ折れて再び南に落ち、空堀に面した内側は土塁になっている。
主郭部こそ水道施設によって破壊されているものの、全体的に良く残っている。
南相馬市役所の南側の道路を西へ進んでいくと信号のある交差点に水道施設への道標が出ている。この交差点を北へ曲がって川を渡った先を西側の集落に入っていくと牛越城の道標があり、本丸下まで車で登ることができる。
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