築城年代は定かではないが南北朝時代に桑折氏によって築かれたと云われる。 貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。その後桑折治部少輔忠家の時に田中城に移り以後代々桑折氏の居城となった。
天文11年(1542年)伊達稙宗と伊達晴宗による天文の乱で、稙宗方にあった黒木城主黒木弾正が田中城を攻めた時、城主桑折久家は相馬顕胤に従って掛田の陣中にいたが、顕胤の命で急ぎ田中城に戻り防戦に努めた。一度は退けたものの再び大軍を率いて攻めてきた黒木弾正は城下で戦い策を持って退いたが、これを追った桑折父子は伏兵にあって討死した。(七橋の戦い)
天正年間(1573年〜1592年)頃、相馬義胤の弟相馬郷胤が田中城代となり、田中忠次郎郷胤と称したが、慶長7年(1602年)廃城となった。
田中城は真野川北岸の平野に築かれた平城であった。 現在の館の内集落が田中城跡で、明治初期の頃は東西約300m、南北約215mの長方形の規模で二重・三重の濠などが残っていたという。
現在は集落内に「城主田中忠次郎郷胤公之碑」と田の神さまの祠が祀られた塚状の土盛りがあり、これが土塁の一部だという。大半の遺構は消滅しているが、集落内には堀跡と見られる水田や土塁跡と見られる土盛がまだ点在しているようである。