築城年代は定かではない。 「鹿角由来記」にあは「一、柴内村柴内弥次郎領 名字阿保 高千三百石花輪次郎末弟 京都より一所に下され 館有」と記されている。鹿角四十二館の一つ。
永禄9年(1566年)の阿保三人衆といわれた大里備中・花輪中務・柴内相模は安東愛季に味方して南部氏の長牛館を攻めた。永禄11年(1568年)南部氏が鹿角に侵攻すると阿保三人衆は郡外に退去することとなったが、南部晴政と南部信直による継嗣を巡った内訌が勃発すると、晴政に仕え旧領に戻った。
天正19年(1591年)阿保三人衆は九戸の乱に荷担したとされ所領を没収された。柴内氏は秋田に去ったが、元和年間(1615年〜1624年)に柴内弥次郎武貞が岩手郡川又にて百石を与えられたという。
柴内館は不動川の南岸にあり、南北に舌状に伸びた丘陵に築かれている。 北から下館、北館(中館)、本館、南館の四郭で構成され、空堀によって区画されていた。
南館は土取によって大半が消滅している。下館には稲荷神社が祀られ、北館との間の空堀は良く残っている。本館は畑になっている。