築城年代は定かではない。 「鹿角由来記」にある「一、花輪村 花輪次郎領地本名阿保、大里上総先祖ト兄弟也、花輪臥牛本館ヘ移ル」の記述は従来、花輪古館を指すものとみられていたが、近年では花輪館とする説が有力なようである。
花輪氏は本姓安保氏(阿保氏)で、武蔵国加美郡安保郷を本貫地とする氏族で、鎌倉時代に鹿角の地頭となって下向し、長男が大里上総、二男が花輪次郎、三男が柴内弥次郎の祖となったという。
永禄年間(1558年〜1570年)の花輪伯耆守親行は安東愛季に味方して南部氏の長牛館を攻めた。永禄11年(1568年)南部氏が鹿角に侵攻すると親行は郡外に退去することとなったが、南部晴政と南部信直による継嗣を巡った内訌が勃発すると、花輪氏は晴政に仕え旧領に戻った。しかし、南部晴政が死去したことにより、花輪氏は再び離散の憂き目にあい、親行の子花輪帯刀延親は九戸の円子村に二百石を領して移った。
天正18年(1590年)南部信直は秋田安東氏に対抗する為に、重臣大光寺正親を花輪館城主として置いた。翌天正19年(1591年)に行われた諸城破却の際も花輪館は対象とならず、そのまま存続し江戸時代には盛岡藩領内の要害の一つとして代官所が設けられた。
花輪館は米代川の東岸、平野に面した丘陵に築かれた群郭式の山城で、本館、北館、南館、ゆるぎ館などで構成されている。
本館は現在の花輪小学校にあたり、西が本丸、東が二の丸だという。北館は桜山公園になり桜山護国神社が鎮座する。南館は小学校の南側の台地で宅地になっている。 いずれも深い空堀によって区画され独立性の高い曲輪であるが、空堀は現在道路となっている。