築城年代は定かではないが天正12年(1584年)頃に桜田資親によって築かれたと云われる。
伊達政宗の家臣で城ノ倉城主であった桜田資親が河股城を築き、伊達政宗は河股城を拠点として大内定綱の小手森城や塩松城を攻め落とした。その後、桜田資親が城主となっていたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置きによって宮城県玉造郡吉岡へ移った。
慶長5年(1600年)伊達政宗は上杉領となっていた白石城を奪うため、駒ヶ峰城主桜田基親が伊達郡に攻め入って川俣城を奪った。その後、兵を分散して各地を焼き払い上杉軍を揺動し、この隙に政宗は白石城を攻略した。
河股城は川俣南小学校の南西に聳える標高322.5mの舘ノ山に築かれている。現在は主郭まで遊歩道が整備されている。
主郭は山頂にあり、その北の北東へ伸びた尾根に二郭がある。二郭には桜田氏居城の石碑と案内板が設置されている。この主郭と二郭を中心に南北に伸びた尾根に堀切がたくさんあり、南は体育館からの登り道との分岐付近まで堀切が続いている。
登山道はいくつあるようだが、北の国道114号線川俣トンネル東口付近に看板が出ている。車は登り口付近に駐車可能。