築城年代は定かではないが毛呂氏によって築かれたと云われる。 毛呂氏は平安時代末期に藤原鎌足の後裔を称する李清が武蔵国入間郡毛呂郷を領して毛呂氏の祖となったことに始まるという。
戦国時代毛呂氏は上杉氏に従っていたが、小田原北条氏が勢力を伸ばすとこれに従い、大永4年(1524年)には上杉氏と北条氏とのあいだで毛呂合戦と呼ばれる戦いが起こり、北条氏が北武蔵を支配下に治める契機となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めで毛呂秋重は北条氏の八王子城に籠もって戦ったが、一族の多くは討死、北条氏が滅亡すると毛呂氏もこれと同じく勢力を失いこの地を去った。その末裔は徳川家の旗本として存続した。
毛呂城は現在の長栄寺一段上に築かれており、現在は史跡として整備されている。
毛呂城は東へ伸びた丘陵の山腹に築かれている。曲輪より高く連なる背後に土塁と空堀を設けて区画しているが、堀の規模は小さい。土塁は曲輪を囲むようにコの字になるが、堀は北側のみ竪堀が伸びており、南へは伸びていない。
長栄寺境内に標柱があり、西の墓地のほうに毛呂氏館への道標が出ている。長栄寺の駐車場が利用できる。
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