築城年代は定かではない。嘉吉元年(1441年)山名持豊に従った北条氏吉が公文荘を与えられ、大仙山に築城したのが始まりとされる。
その子孫である清氏のとき下山氏を称した。天文13年(1544年)には三星城の後藤氏に責められ落城、天正7年(1579年)には後藤氏と宇喜多氏との争いで落城したという。
井の内城は標高252.2mの大仙山山頂に築かれている。
主郭は三角点のあるところで小さな社が祀られている。二郭を想定するのは難しいが、現状の縄張りでは北西の峰が二郭、その間にある尾根を三郭、また北に伸びた峰(愛宕山と呼ばれている)にも曲輪があり、主郭と北峰の曲輪の間に東麓から続く大手道が合流する。
現在の縄張りは南西側に防御遺構を集中させており、西尾根は巨大な二重堀切2、南西山腹には横堀3と横堀6からそれぞれ畝状竪堀群が伸びている。またその上部にも横堀5があり、南に張り出した曲輪ivが厳重に横矢を掛ける構造となる。これほどまでに横堀と畝状竪堀群が状態良く残っている例は少なく、対毛利で宇喜多の城であった備前八浜城などが思い浮かぶ。
主郭とにかくを結ぶ三郭は南西側を高土塁とし北東側は低くなる。この曲輪は北端に枡形状の虎口1があり、内部は細かく交互に段曲輪と通路が続くように設定されている。主郭の南側にも小さな横堀8があるが、この部分には畝状竪堀群は存在していない。また南東尾根先の曲輪vは高土塁となっているが、その下方には東側にやや竪堀状の浅い溝があるのみで、他の尾根が大堀切で遮断されているのに対して、この尾根の防御は甘い。
主郭から北へ伸びた曲輪viiは尾根の両端に低い土塁が続いている。これを北へ上り詰めると曲輪viとなる。北端の堀切11は後世の改変か曲輪側は高い切岸であるが外側は低く中央が土橋状となる。ここから北へ降りる尾根に垂直に小さな竪堀状の溝が四本あり、山道の可能性もあるが、畝状竪堀群とも考えられる。
駐車場は東麓の公文小学校跡が利用できる。そこから南へ少し歩いた民家の脇に案内板が設置されており、ここから登るのが大手道であるが、現在登山道は一部猛烈な藪になっており、ここから登るのは苦労する。
わたしは主郭から南東へ伸びた尾根先部分にある神社から取り付き、尾根道を登って曲輪vへ登った。ここは道にはなっていないが藪もなく歩きやすい。
最寄り駅(直線距離)