天正9年(1581年)頃宇喜多氏によって築かれた。
天正9年(1581年)宇喜多直家が没すると、毛利氏は元就四男の穗田元清を大将として児島へ侵攻し、麦飯山城を拠点に児島を制圧しようとした。これに対抗して宇喜多氏は宇喜多忠家・基家を主将として八浜城に陣を構えた。天正10年(1582年)柳畑の浜辺で合戦となり、宇喜多基家はこの戦いで流れ弾にあたって討死、宇喜多勢は浮き足立ち毛利軍の追撃を受けたが、八浜七本槍と呼ばれる武将の活躍で陣を立て直し、毛利の追撃を退けた。
八浜城は児島湾(児島湖)に面した比高50m程の丘陵に築かれており、現在は両児山公園(ふたごやま)となっている。
両児山はその名が示す通り北峰と南峰の二つの峰がある山で、現在は干拓されているが、北から西に掛けては海に面していたと思われる。
八浜城は南北両峰に遺構があり、便宜北城と南城として説明する。
南城は芝生の公園となった南端部で南から東側面にかけて横堀3があり、途中で屈折したり上下に折れて、西端は堀切5、北端はaの部分まで続いている。この横堀の外側に畝状竪堀群2があり、横堀と畝状竪堀群のセットが最大の特徴となっている。曲輪となるべき尾根上部分は緩斜面地形であり、最高所のbは墓地となって八浜城の石碑がある。この部分に方形に低い土塁状の高まりがあるが、遺構の可能性は低いだろう。横堀の北端となるaは切岸となり、その下方にやや食い違って連続竪堀4がある。
北城は御崎神社、快神社などが祀られた北峰であるが、この部分は後世の改変が大きく、明瞭に残るのは東側の畝状竪堀群1である。この畝状竪堀群は10条の竪堀であるが、北二条は掘り下げ型、それより南はコブ型の竪堀で南から二条目のcは切岸から派生しており、南への移動を抑止している。南は参道の石段が設けられているためハッキリしないが、西側にdに向かって切岸が屈折している。
北麓の児島湖浄化センター側から車道が付いており、その終点が駐車場になっている。
最寄り駅(直線距離)