築城年年代は定かではないが有元氏によって築かれたと云われる。 有元氏は嘉保年間(1094年〜1096年)頃に美作国へ下った菅原道真の後裔の知頼を祖とし、知頼の曾孫とされる仲頼の三男満佐(満祐)は三穂太郎と称した。この満佐には七人の男子があり、それぞれ有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見を名乗り菅七流の祖となった。
延元元年・建武3年(1336年)新田義貞が足利尊氏討伐の兵を挙げたとき、美作菅一族は赤松氏に従って足利氏方となった。このとき新田義貞の武将江田兵部大輔によって菩提寺城と大見丈城は攻略されたが、江田氏が去った後は再び、有元佐顕が大別当城に籠もったという。
その後も有元氏が城主として続いて戦国時代には宇喜多氏に従い、関ヶ原合戦の後は帰農して大庄屋になったという。
大別当城は那岐山から南へ派生した標高591mの大別当山に築かれている。 現在は「展望の名所 大別当展望台」として遊歩道が整備され南端が展望台になっている。
高低差の少ない尾根上に堀切で区画した曲輪群(I、II、III)が並んでおり、南端からややく降ったところに曲輪群IVがある。主郭ははっきりしないが、中央の曲輪IIが該当するだろうか。
曲輪群Iは尾根上に南北に長い曲輪があり、東山腹に帯曲輪がある。土塁ははっきりしないが、西端部分は遊歩道のためか一段高く、北端部も高いところがある。北側の腰曲輪付近に竪堀状の溝が二ヶ所確認できるが、竪堀となるかははっきりしない。
曲輪群IIは北端がやや広くL字に土塁が残る。曲輪群I同様に東側に平段があり、堀切1と繋がる。
曲輪群IIIは高低差の少ない尾根の南端に位置し、北端に土塁が残る。南側は展望台になって改変されている部分があるが、土塁や堀はない。
曲輪群IVは山頂部からやや下った標高550m付近にあって南北に平段が連なる。南端は岩があるが堀などはない。
鉢巻山との鞍部、菩提寺に向かう途中に登口があり、西側に余白があって駐車可能である。
南麓の那岐山麓 山の駅からも登る事ができる。
最寄り駅(直線距離)