詳細不明。尼子氏の陣跡とも云われるが不詳。
比丘尼城は比高30m程の低丘陵に築かれていた。 北側の山腹に神社があったようだが、現在はなく麓に「友行荒神移転地」と書かれた標柱と社があるのみになっている。
山頂部は比較的平坦ではあるが、切岸加工されているようには見えない。南へ続く尾根も緩やかな地形ではあるが、ここも切岸加工されておらず、城址の遺構らしきものは現状確認できない。
城山の北側麓には「元禄の道標」(町指定重要文化財)があり重要な道が通っていたことがわかる。また、この城とは直接関係ないものと思われるが、西麓にある定森家(定森家)の墓地があり、その由緒には「平清盛の二男の妻がこの地に逃れて男児を産み、定盛五郎左衛門と名乗り云々。定盛は柿村の地頭なりと見ゆ。」などと記されている。