築城年代は定かではない。南北朝時代に菅氏一族の有元佐顕が在城していたが大別当城へ移ったため新免則重が入城したと云われる。
文明12年(1480年)新免長重が城主のとき山名氏によって攻められ落城、長重も討死した。長重の子三郎は母に連れられて小原城主宇野家貞を頼って落ち延び、成長したのち家貞の養子となって宇野貞重と称した。
天正年間(1573年~1592年)には福田氏の抱城であったという。
小房城は標高509.9mの小房山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
三角点のある山頂が主郭で、そこから北東、南東、北西の尾根に曲輪を展開する。南西背後の尾根は堀切1で遮断し、西側面には竪堀2が認められる。
主郭は逆L字に曲がった曲輪で、中央がやや小高くなって案内板が設置されている。
主郭の北東下に二段になった曲輪IIがありり、その下方を堀切3で遮断する。堀切3は土橋が架かっているが山道による改変であろう。この先の尾根はやや高くなって傾斜しているが北端に土塁を設けており曲輪Vとなる。北東尾根は高い切岸となっており、その先には堀切は認められないが、北側に幅広の竪堀状の溝が確認できる。
主郭から南東に伸びた尾根には三段になった曲輪IIIがある。その先は岩が露出した尾根になっているが、その下方に石積を伴う曲輪VIがある。石積が確認できるのはこの部分のみで、曲輪VIを含め城郭遺構なのか判断は難しい。
主郭から北西に伸びる山腹には最上段の曲輪IVから下方に不整形な帯曲輪状地形が続いている。植林に伴う造成のようでもあるが、上のほうは城郭遺構としても遜色ない切岸を伴う。
南山麓の小房集落から登山道がある。入口に看板があり標高450mの分岐にも看板があるが、中腹のあたりは荒れている。駐車場は小房コミュニティハウスに駐めさせてもらった。
もう一つは山頂近くを通っている林道があるようで、その途中から登ることができる。西の県道側に入口があるが、林道がどのような道なのかは未確認である。
最寄り駅(直線距離)