築城年代は定かではないが文安2年(1445年)頃に依田忠政によって築かれたと云われる。依田忠政は信濃国御嶽城主で、永禄年間(1558年〜1570年)の城主は依田光慶で箕輪城主長野業政の娘を娶っていた。
永禄9年(1566年)箕輪城が武田信玄によって攻略されると依田氏は没落し、永禄10年(1567年)新田信純が信玄より一千貫の領地を与えられ城主となり、後閑氏を名乗った。
信純はその後信玄の命によって甲斐の名族上条氏の名を継いだ。信純の子重政・信久・信重は上条を継いだもの、総社を領して石倉城を守ったもの、後閑氏を継いだとされるが、いずれがどのようになったのかは諸説あって定かではない。
武田氏が滅亡した後は北条氏に属し、上条氏から後閑氏に復姓して両後閑と呼ばれ、松井田城・厩橋城に籠ったという。
城は後閑川の北岸にあり南へ張り出した丘陵の先端頂部に築かれている。 現在は後閑城址公園として整備されており、公園化されているわりには良好に遺構が残っているようである。
主郭は山頂にあり、そこから四方に伸びた尾根に曲輪を配し、西を除く三方は主郭と尾根の付け根部分を堀切で断ち切っている。西側は広大な削平地が段々と連なっている。
後閑小学校を目指す。その北方の山が城址で公園の駐車場が東西にある。
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