築城年代は定かではない。建武年間(1334年〜1338年)に紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国がこの大野城に入城していたという。
その後、建武年間(1334年〜1338年)には南朝方の浅間入道覚心、その子浅間忠成、保田氏、北朝方の細川氏が続いて大野城に入城した。
細川氏が南朝方の急襲によって敗走すると、紀伊守護職に任ぜられた山名義理が、永徳2年・弘和2年(1382年)に大野城を攻略して大野城主となった。しかし、六分の一殿と呼ばれるまでの勢力を持った山名氏を抑えようと、将軍足利義満が画策し明徳の乱が勃発する。山名義理は紀伊から兵を出さず動かなかったが、乱の平定の後に罰せられ、紀伊国と美作国を取り上げられた。紀伊を召し上げられた後も大野城から出なかった山名義理に対して、将軍は大内義弘を送って攻めせると、義理はこれに対応しようとしたが紀伊の国人衆はこれに従わず、義理は再起を図る為に城を脱して淡路国由良へ脱した。
応永6年(1399年)大内義弘が和泉国境で挙兵した応永の乱の後、紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国が再び大野城に入城したが、基国は応永8年(1401年)に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせた。
大野城は藤白山系の四方の一つ標高440m程の所に築かれている。西の標高424mの所に築かれている藤白城を含めて大野城と呼ぶことがあるが、ここでは別城として示す。
大野城は山頂から北へ伸びた主郭部と、西尾根に続く曲輪群から成る。 主郭は山頂にあって南北に三段の曲輪となり、南端の最高所に石碑と案内板が建っている。 この部分は発掘調査が行われており、建物跡や石組み遺構、土坑などが検出され、十四世紀後半から十五世紀初頭の陶器類が出土したという。
主郭の北尾根には一条堀切があり、東尾根は高い切岸になっている。西へ続く二郭は北がに土塁のような土壇の高まりがあり、西尾根に浅い堀切が続く。南の山腹には畝状竪堀群とまではいかないが、連続した竪堀が多くあり一つ一つが長く明瞭に残っている。
海南市と有田川町を結ぶ県道18号線から「雨の森 森林公園」に向かう林道があり、入口に小さな「大野城跡」の道標が出ている(林道入口) 。
ここから舗装された林道を道なりに進み、公園の駐車場を過ぎてからは未舗装となるが、さらに進むと大野城入口の道標が出ており、この付近に駐車できる(登山口)。
登り口は主郭のすぐ北下でわずか数分で主郭まで登ることができる。
最寄り駅(直線距離)