築城年代は定かではないが鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃に湯浅宗基によって築かれたと云われる。 湯浅宗基は湯浅氏の祖である湯浅宗重の孫で宗光の子である。石垣氏の祖となったことから石垣城とも呼ばれている。
応永7年(1399年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国すると、その弟の畠山満国が城主となり外山城と改められた。その後、鳥屋城と改められ畠山氏の一族や守護代神保氏等が城主を務め、天正13年(1585年)畠山貞政が城主のとき羽柴秀吉に攻略され廃城となった。
鳥屋城は標高304.0mの鳥屋城山に築かれている。 細く急峻な山の地形を利用した城で、山頂から西に東西の規模は550m程である。
主郭は東の山頂部分ではなく、南西の標高300mの所で、北の尾根上が一段高く、南下に馬場のような帯曲輪が付き、尾根上部分に堀切があり東西に分かれている。 東側は東端部が一段高く、社が祀られ土塁が付き、背後は大堀切になっている。この辺りの南側斜面に石積が残る。 西は城内でも広い曲輪で、西尾根部分には岩や石積を利用して段が設けられており、西尾根には堀切が付いている。
山頂部分も広い曲輪が段々と連なる構造で、石積も確認できる。東尾根は岩が露出し、堀切で遮断している。
この城については「鳥屋古城図」というものが存在しているようで、本丸は総木造り、二ノ丸、三ノ丸は茅葺の建物があったという。
金屋中学校の東側の道路に登山道の入口がある。駐車場はなく付近の広い道路か、水道施設から入った公園の入口付近に駐める事はできる。
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