築城年代は定かではないが宍道氏によって築かれたと云われる。 宍道氏は出雲国守護京極高氏(佐々木道誉)の孫秀益が宍道を領して宍道八郎と名乗った事に始まる。
宍道氏は尼子氏の重臣であったが、天文9年(1540年)尼子晴久が毛利元就の安芸国吉田郡山城攻めに参陣するも、大内氏の援軍によって尼子氏は敗走、その後大内義隆が出雲国富田城の尼子晴久を攻めると、他の多くの国人同様に大内氏へ寝返った。しかし、大内氏が尼子氏を攻めあぐねると多くの国人が尼子氏方へと寝返り大内方は敗走、この時宍道氏は大内氏とともに山口へと落ち延びた。
その後、大内義隆が陶晴賢によって討たれると、陶晴賢を倒した毛利元就に属して宍道の旧領を回復、しかし関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二ヶ国に減封となるとそれに従って防長へと移った。
城は金山要害山の西の峰を主郭として、北側を防御するように築かれている。
「四十八成」(成(なり)は一般的に丸(まる)と同等の意)と称するように多数の曲輪で構成された山城で、詰成と二の成の間に大堀切があり、北側には桝形の虎口が残る。ここの桝形虎口は多くの山城の桝形より大きく明確に残っている。
曲輪は北西方向と北方向に伸びる尾根に築かれており、北西方向には椎ノ木成、茶臼成が残り、こちらの尾根は北側からの登山道があって整備されている。北尾根には金比羅成、来待成などが残るが、こちらは完全に竹薮、矢竹の群生に埋もれており、散策してみたものの前に進んで登山道へおりて行くのが精いっぱいである。 この谷の所にある平坦地には上り坂が付いており、その脇は石積で固められていた。
登山口は二か所あり、城山の南麓の南宍道駅横と、北麓である。
南宍道駅横から登ると神社があり、その奥に山へ通じる道がある。北側からは一本道であるが、最初の入口は山裾の水田の脇にある。
最寄り駅(直線距離)