築城年代は定かではないが大野氏によって築かれたと云われる。 大野氏は紀姓で紀季康の孫紀季清が鎌倉時代初頭に大野庄の地頭職を賜り下向したのが始まりとされる。
南北朝時代には北朝方として京でも活躍した。
戦国時代には尼子氏、後にに毛利氏に従った。 毛利氏の支配下となった出雲は、三沢城主三沢為景と鳶ヶ巣城主宍道政慶が中心となったが、鎌倉以来の名家である大野氏は宍道氏と次第に対立するようになった。 大野治良左衛門高直の死後、家督を継いだ大野彦次郎高成は天正10年(1582年)鳶ヶ巣城主宍道政慶の招きに応じて、一族の大垣八郎左衛門秀清・同只九郎義秀兄弟、秋国左馬助などを従え鳶ヶ巣城へ赴いたが、宍道氏の襲撃にあって謀殺された。宍道氏はすぐさま大野へ攻め入り、留守を預かっていた大野信濃守、秋国和泉守も切腹し、大野氏は滅亡した。
本宮山城は宍道湖の北にある標高279.4mの本宮山山頂に築かれていた。 現在山頂には無線中継施設が建ち、大きく改変されているようだが、ここに案内板とともに「大野氏城址」の石碑が建っている。
遺構はほとんど残っておらず、山頂の主郭を中心として北と南の尾根に削平地が残る程度である。南東下の尾根には一族の大垣氏の居城と伝えられる亀畑山城がある。 また、大野氏は西麓にある土居城を居館としていたようである。
居館が西麓にあったということで、比高は西麓からのものとしてあるが、山腹には集落があり割と高い所に民家がある。また、南麓にある高野宮には霊神社があり、大野高直・大野高成・秋国市之助・大垣秀清・大垣義秀を祀ってある。
山頂にある無線中継施設まで車道がついており、山頂まで車であがることができる。大垣町側から上がったが、西側の上大野町側から道標が出ており、県道266号線からその道標に従って登れば山頂に着く。山道ではあるが、山腹に集落もあり分かれ道が多数あるので、ナビなどで道を確認できないようであれば、道標に従った方が良い。
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