築城年代は定かではないが富永氏によって築かれたと云われる。 富永氏は浮穴氏の後裔で永治年間に富永右京進安直が笹ヶ森城を築いて居城したことに始まり、その後、富永氏十九代のときに橘城を築いて居城としたという。
元亀年間(1570年〜1573年)二十五代富永備中守のとき自身が病弱であったため、父富永和泉守の娘婿であった大野直澄(地蔵嶽城主大野直之の兄)に橘城を譲った。この後、大野氏は橘氏とも名乗ったという。
天正2年(1574年)頃から土佐の長宗我部元親の軍勢が度々野村口から侵攻してきたが、大野直澄はこれをよく防ぎ撃退した。長年にわたって戦い続けたが、、天正11年(1583年)頃には長宗我部氏に降った。
その後、嫡男大野直範が家督を継いだが、天正15年(1587年)大洲城主として戸田勝隆が入部した頃、直範は城を退去して去っていった。
橘城は南へ張り出した尾根の先端頂部に築かれており、現在は八幡神社境内となっている。
主郭は八幡神社境内となっており、南下に曲輪II、さらに下に帯曲輪III、IV、Vと続き、西下にVIがある。曲輪IとIIはきれいに削平されているが、帯曲輪は切岸加工されているものの曲輪は傾斜を伴い畑となっていた痕跡がある。
『愛媛県中世城館跡』では主郭の北端に土塁跡があるとされるが、現状ではほぼ痕跡がなくなっている。北尾根には堀切が一乗り、東に深い竪堀が長く伸びている。
県道沿いに八幡神社(橘城)の道標が出ているが、カーナビにもまともな道路地図が載っておらず、以外と訪れるのが難しい。県道から外れて南下する道の終点が八幡神社で、境内入口に駐車場がある。
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