築城年代は定かではないが井村兼冬によって築かれたと云われる。 井村兼冬は三隅氏四代三隅兼連の弟で、井村城を築いて井村氏の初代となった。
二代井村兼雄は鳥屋尾城と小石見城の城主も兼ね、南朝方として各地を転戦した。
元亀元年(1570年)三隅氏と毛利氏との戦いのなかで三隅城とともに落城したという。
井村城は井川川に沿って南へ伸びた丘陵の南端頂部に築かれており、現在は登山道が整備されている。
北端山頂部に主郭Iがあり、その周りを細長い帯曲輪IIが取り巻く。さらに南下に曲輪IIIがあり、南東下に曲輪IVがある。これらの曲輪群が主要部になっており、ほぼ全周囲が堀切と畝状竪堀群で埋め尽くされている。
虎口は明確ではなく現状曲輪IIIの中央部にスロープがあって曲輪IIに接続しているが、この部分も改変された地形のように見える。脇には浅い窪地があり、堀状になっているが、この部分もスロープが付けられたことによる副産物のようにも見える。
主郭部の南西尾根を遮断する堀切4の外側には曲輪VIがある。この部分は堀切外側の尾根の傾斜はそのままで、南端のみ削平して土塁を設け、外側にしっかりした切岸を築いてる。さらに南西に伸びる尾根も曖昧な加工になっている部分が多いが、西から南にかけて武者走りと切岸を設け、西尾根を二重堀切、その脇に畝状竪堀群7を設けている。この堀切4から南の遺構は緊急自体によって城を拡張して防御を強化したものと考えられる。
城の南東側は春日神社からの続く参道によって道が付けられておりはっきりしない部分も多いが、曲輪IVの下方にも竪堀群があることから、主郭Iの東側から続く竪堀群がそのまま曲輪IVの東側まで続いていたことが想定できる。曲輪IVからは南に下る山道が接続しており、南端の曲輪Vまで通じている。この下方は通路状になっているが二条の竪堀群8があることから、この部分までは城域であったことがわかる。おそらく、大手筋はこの曲輪VからIVを経て入るルートであろう。
登山道の入口で山腹にある春日神社は井村氏の氏神、隣の報恩寺は菩提寺だという。他に「姫の墓」という円塚があるというが見つけられなかった。
報恩寺を目指していけば良い。入口にある集会所に車を駐められる。登山道は春日神社から付いている。
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