築城年代は定かではないが鎌倉時代に三隅氏(兼信か?)によって築かれたと云われる。 三隅氏は益田氏の一族で、益田兼高の子兼信が三隅一帯を領して三隅氏を名乗ったことに始まる。
南北朝時代に三隅氏はいち早く後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、南朝方として各地を転戦する。暦応5年・興国3年(1342年)には北朝方の上野頼兼が諸城を落として三隅城へと攻め寄せたが、これを撃退。さらに観応元年・正平5年(1350年)高師泰が大軍を率いて石見国の諸城を落とし三隅城を包囲する。しかし、これも落城するには至らず、翌年には包囲を解いて引き上げた。
正平7年(1352年)には三隅兼知が男山八幡で討死し、文和4年・正平10年(1355年)三隅兼連も足利直冬に従って上洛し東坂本で討死した。そして七代直連の時に益田兼見に降った。
天文21年(1552年)大内義隆を討った陶晴賢は、益田藤兼と結んで三隅城を攻め落とした。しかし、その陶晴賢も毛利元就に敗れ、三隅国定は周布晴氏と謀って毛利氏に反抗するが毛利氏によって三隅氏は滅亡した。
城は標高362.1mの高城山に築かれている。山頂からの眺望は絶品であるが、木が切られている為に草が生い茂っており、いまいち歩き回る気にならない。
山頂部に主郭があり、東西に二段の削平地があり、東から北側にかけて腰曲輪がある。主郭には石垣が施されているらしいのだが、草に覆われてほとんど確認することができない。
主郭部から南西の尾根、北東の尾根に数段の削平地があり、北東にある削平地の東側面に畝状竪堀群が残っている。
なお、城の呼称は正しくは「高城」であるが、一般名称として「三隅城」とした。
国道9号線から三隅市街に入って龍雲寺を目指す。龍雲寺は六代三隅信兼による開山で、庭もお寺も素晴らしい。この龍雲寺から城山の頂上近くまで車道があり、終点が駐車場となっている。
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