康永元年・興国3年(1342年)北畠顕能によって築かれたと云われる。
北畠氏は村上源氏で京の北畠に居住した公家であったが、建部3年・延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に北畠親房が南伊勢に下向し、玉丸城を拠点として勢力をのばした。
足利氏はこれに対して幾度となく玉丸城を攻撃し康永元年に落城、顕能は多気郡に逃れた。その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、南朝方は次第に勢力を削がれ北畠氏も一守護大名となっていった。
永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。具教は三瀬館に潜み信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命によって暗殺された。
霧山城は北畠氏館の西背後に聳える標高560mの山に築かれている。現在は「多気北畠氏城館跡」として国指定史跡となり整備されている。
北畠氏館跡である北畠神社から登ると北畠氏館詰城を経て霧山城に至る。麓からの比高は約240m程である。
霧山城は北峰と南峰の二つの遺構があり、主郭部は北峰にある。主郭部は堀切を挟んで南西の主郭と北東の二郭から成る。主郭は分厚い土塁が巡り、小さな平地空間に石碑が建っている。二郭は南を除く三方に土塁が巡り、北東尾根は大きな堀切によって遮断している。
南峰は鐘撞堂と呼ばれ、単郭の曲輪で南西端に土塁があり、その背後を堀切で遮断している。
整備された登山道が東麓の北畠神社から続いている。
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