築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)頃に武田高信によって築かれたと云われる。
因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と云われ、因幡山名氏の家臣であったが、武田高信のときに勢力を拡大して主家に背くようになった。高信は鵯尾城を弟又三郎に譲って鳥取城へ移り、毛利に属して勢力を拡大する。しかし天正元年(1573年)山名豊国を擁して甑山城に進出してきた尼子の旧臣山中鹿之助との戦いで敗れ、鳥取城は山名豊国に明け渡して鵯尾城へ退いた。
その後、武田高信は毛利からも見放され因幡武田氏は没落した。
鵯尾城は玉津集落の南西に聳える標高268mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
鵯尾城は連郭式の山城で、城域は尾根に沿って拡がっており大きな城であるが、古い時代の山城の縄張である。主郭は山頂で、北東に一段低い鞍部の曲輪を挟んで一段高くなったところが二郭、北東の大手側の尾根には無数の段曲輪が連なるが堀切はない。主郭から南西に伸びた尾根と南東に伸びた尾根にそれぞれ二条の堀切がある。南東尾根の堀切は東側に長く大きな竪堀として伸びている。
玉津集落にある玉津神社の南側の道路を南西に入っていくと畑の中を山に進む道があり、溜池の脇に鵯尾神社の鳥居がある。ここに案内板があり登山道入口となる。
登山道入口まで車で入ることができるが、動物除けの柵が4ヶ所もつけられている。
地図で見ると主郭の南側に道路があるが、採石場の道路だろうか、こちらからは山道はなく堀切に至るまでの尾根は倒木が多い。
最寄り駅(直線距離)