築城年代は定かではないが手賀氏によって築かれたと云われる。 手賀氏は常陸大掾氏一族で玉造幹政の次男政家が手賀郷に住んで手賀氏を称した事に始まると云われる。
応永32年(1425年)に手賀出羽守は鹿島社造営奉行を勤めている。永禄2年(1559年)手賀太郎景幹は玉造宗幹とともに小田氏治軍を柄崎で撃退している。天正19年(1591年)手賀高幹兄弟は佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって常陸太田城にて謀殺され手賀氏は滅亡した。
手賀城は手賀氏の菩提寺である養徳寺の東方にあり、南西に伸びた台地の南端に築かれている。
主郭は南端にあり一段小高段を帯曲輪状が取り囲んでいるようであるが、曲輪の内部は酷く荒れていてハッキリと確認できていない。北東に続く台地には巨大な二条の堀切を用いて遮断しており、さらに北西側に横堀として続いている。また一つの空堀は虎口のように屈折して側面に竪堀となって伸びている。
養徳寺から北東へ続く道の途中に東へ登っていく道があり、その終点が北の台地上になっている(地図)。ここから荒れた竹藪を突破すれば空堀に至る。
南側にも道があり、こちらから下山したが、こちらの道も荒れた竹藪で城内も酷く荒れており歩くだけで体力を消耗する。
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