築城年代は定かではないが玉造氏によって築かれたと云われる。 玉造氏は常陸大掾氏一族で行方景幹の四男幹政が玉造郷に住んで玉造氏を称した事に始まると云われる。
玉造孫太郎頼幹は鹿島社の総検校を務め、延慶2年(1309年)には大使役を務めた。天正19年(1591年)玉造重幹は佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって常陸太田城にて謀殺され玉造氏は滅亡した。
玉造城は県指定有形文化財となっている大場家住宅の北背後にある丘陵に築かれていた。
内宿集会所の東側にある一番高い部分が本丸とされ、北側に案内板が設置されている。本丸は東半分に土塁が巡っているようであるが、酷い藪で東側の入口部分にある土塁しか確認できなかった。周囲は宅地や荒れ地で、遺構の状態は良くないが、北側の山腹には横堀らしき地形も残されている。