天正16年(1588年)小西行重によって築かれた。 肥後南半国の領主として宇土城に入城した小西行長は重臣小西行重に命じて古麓城を廃して麦島城を築かせた。
麦島城は西側を八代海に面して堀に海水を引き込んだ浮城であったという。 関ヶ原合戦で小西行長は西軍に付き京都六条河原で斬首となると開城し、行重は薩摩に逃亡した。 小西氏の旧領を熊本城主加藤清正が受け取ることとなり、麦島城には城代が置かれた。
忠広の時には元和の一国一城令のもと多くの支城が破却されたが、麦島城は例外として存続された。しかし、元和5年(1619年)地震によって崩壊した為、忠広は幕府に願出て麦島城を廃し、新たに八代城を築城した。
麦島城は球磨川河口に築かれていた。現在は『八代城跡群(古麓城・麦島城・八代城』の一つとして国指定史跡となっている。
麦島城は本丸、二の丸、三の丸があり東に大手を開いていた。曲輪の呼称については諸説あるが、案内板の図では北西に本丸、その下が三の丸、東を二の丸としている。
現在は市街地に埋もれ遺構はほとんど残っていないが、 道路建設のために発掘調査が行われ石垣や金箔瓦などが出土したという。 本丸の天守台跡とされる所に案内板と標柱が設置されている。
八代のキリシタン殉教地の南側にある空き地が天守台。キリシタン殉教地の辺りに駐車できる。
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