築城年代は定かではないが内河義真によって築かれたと云われる。 隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられた。 翌建武2年(1335年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築いた。これが八代城で現在古麓城と呼ばれている。
「太平記」には建武3年(1336年)に北朝方の一色範氏が内河の城(八代城)を攻めたことが記されている。
長禄3年(1459年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗った。文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになる。文明14年(1482年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、翌15年には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城した。相良氏は一度退いたが文明16年に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れた。
明応8年(1499年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰した。
文亀4年(1504年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移った。天文3年(1534年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城とした。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封する。八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれた。
古麓城は球磨川河口の八丁山から北西に派生した山に築かれている。現在は『八代城跡群(古麓城・麦島城・八代城』の一つとして国指定史跡となっている。
古麓城は近世八代城が築かれる前の中世の八代城で、八町嶽城・鷹峰城・鞍掛城・丸山城・新城・勝尾城・飯盛城の総称と云われている。ここでは鷹峰城と丸山城を別ページで紹介しているので、その他の部分について古麓城として紹介する。
この古麓城の中心となる主郭は新城と呼ばれる標高140m程の峰で、現在は公園として整備されている。ここから北西の水道施設のある尾根に下ると堀切があり、貯水地脇の道路下には数条の竪堀が確認できる。新城から北東の悟真寺方面に進むと、やや離れて二条の堀切があり、その先端に松尾の付城?とされる峰があり、この手前に竪堀状の地形があるので、堀切が遊歩道によって消滅しているかもしれない。
麓の春光寺は八代城代松井氏の菩提寺で、八代城の永御蔵番所が移築現存している。(写真は八代城を参照。)
北西麓にある春光寺の脇から更に谷奥へ続く道を進むと駐車場があり、ここに案内板が設置されている。遊歩道はここから、北側麓にある中宮山悟真寺と懐良親王御陵へと続いている。
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