永承3年(1048年)に菊池一族によって築かれたと云われるが定かではない。
鎌倉時代末期頃には宇土庄地頭職の宇土道光の居城であった。
文亀4年(1504年)八代の古麓城主であった名和顕忠は相良氏によって追われ、木原城を経て宇土城へと移り、以後、名和氏が代々宇土城主として続いた。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で名和顕孝は降伏し所領は安堵された。 その後、肥後に入封した佐々成政に対して勃発した肥後国人一揆では、名和氏は中立の立場であったが、鎮圧後に佐々氏に協力しなかったことを陳謝するため、名和顕孝は弟名和顕輝を城代して上洛した。翌天正16年(1588年)一揆を鎮圧した秀吉の軍勢が、宇土城明け渡しを要求したが、顕輝はこれを拒否して籠城、落城して顕輝は討たれた。
宇土古城は近世宇土城の西隣、西岡神社の北側の比高40m程の丘陵に築かれており、現在は国指定史跡として公園になっている。
宇土古城は東の「千畳敷」と西の「三城(さんのじょう)」から成る。東の千畳敷が主郭とみられ、東に虎口を開き、主郭の裾野を横堀が巡っている。北から東側一帯は階段状に帯曲輪が巡り、南は幅広く土塁が付く。
西の三城は周囲に石積があり、低い土塁で東に虎口を開く。北側一帯に階段状に平地があり、石積も多く残っているが、どの程度が城の遺構なのかわからない。
三城の西側にある竹藪の中には長大な空堀が残されている。
北の宇土市椿原町にある宗福寺(地図)は名和氏の菩提寺で、名和武顕・行興の位牌と名和行直の墓が残る。
宇土市役所から南西方向に進み宇土小学校を過ぎて進んで行くと道標が出ている。西岡神社を目印に行くと簡単にいくことができる。 山腹に専用の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)