築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたと云われる。
天文3年(1534年)肥後国守護菊地義宗は兄の豊後国大友義鑑に反旗を翻し兵を挙げた。 この時、隈庄城には菊地氏を支援する相良氏の兵が入城していたが、大友方の名和氏が豊福城から攻め寄せた。この戦いは菊地義宗が相良氏を頼って落ち延び終焉する。
その後、甲斐敦昌が城主となっていたが、敦昌が亡くなると目方能登守に乗っ取られた。この目方能登守については定かではないが、隈庄城を入手した後は相良氏と結び大友氏に対抗したが、天文12年(1543年)阿蘇惟豊と名和氏が結んで隈庄城を攻め落とした。
天文12年(1543年)には甲斐敦昌の子甲斐親昌が城主となるが、この隈庄甲斐氏と御船城主となっていた甲斐親直(宗運)は、その後一族同士で幾度となく争った。 天正8年(1580年)隈庄城主甲斐守昌は阿蘇氏に反旗を翻したので、阿蘇氏は御船城主甲斐宗運に隈庄城を攻めさせた。この守昌は宗運の娘を娶っていたという。守昌は名和氏の援軍を得て対抗したが落城した。
現在城の鼻公園として残された部分が本丸跡、南側にある墓地付近が二の丸、道路を挟んで東側にある城南町役場や下益城城南中学校付近が三の丸だといわれるが、明確な遺構は残っていないようである。