築城年代は定かではないが、寛永16年(1639年)以降の築城と推測されている。
沢海藩溝口氏初代は新発田藩主溝口秀勝の次男善勝で、徳川秀忠に仕えて慶長14年(1609年)上野国甘楽郡内で二千石を賜り、翌慶長15年(1610年)兄宜勝が新発田藩を相続する際に蒲原郡内に一万二千石を分知され、あわせて一万四千石となって諸侯に列した。
沢海藩は二代政勝のときに弟助勝に三千石、直勝に千石を分与として一万石となった。三代政良は嫡子がいなかったため水口藩主加藤明友の次男政親が嫡子となって四代目を相続したが、貞享4年(1687年)藩政が乱れて改易となった。
沢海藩溝口氏が改易となったのちは、幕府直轄領として沢海代官所が設けられ、のちに旗本小浜氏の所領となった。
沢海城は「阿賀野川フラワーライン(沢海床固め公園)」のあたりに築かれていたと考えられている。このあたりは「御殿」と呼ばれていたそうで、現在駐車場脇に案内板が設置されている。