築城年代は定かではないが新津氏によって築かれたと云われる。 新津氏は清和源氏新羅三郎義光の流れを汲む。平賀有義の子資義が蒲原郡金津保地頭職となり、金津小次郎を称す。有義の二男資直は金津氏を継いで金津城主となり、三男信資は新津越前守三郎信資を称して新津氏の祖となった。
新津氏は当初、越後の豪族城氏に従っていたが、永正3年(1506年)には新津越前守が越後守護代長尾為景に従っていた。その後は代々上杉氏(長尾)に従い、慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると、新津勝資もそれに従って会津へ移り江戸時代も上杉家臣として続いた。
新津城は現在の新津自動車学校の敷地の北方一帯に築かれていたという。 日本城郭大系によれば、地籍図などで一辺90m四方の方形居館で、曲輪は一段小高く、周囲は堀跡と見られる水田が巡り、一部は土塁も残っていたという。現在は自動車学校の西側の道路に面して標柱が一本建っているだけで、遺構を確認することはできない。
南東にある東島城は新津氏の詰城と考えられている。