築城年代は定かではないが鎌倉時代に水原氏によって築かれたと云われる。 水原氏は伊豆国大見郷を発祥とする鎌倉御家人の大見家秀の末裔で、越後国白河庄の地頭職となり後に移り住んで水原氏を称したことに始まる。
水原満家は御館の乱ので上杉景勝を支持した。その後の恩賞を不満として、新発田重家が上杉景勝に反乱を起こすと、景勝方として放生橋合戦で討死した。水原氏はこの満家死後絶家となっていたが、浦佐城主大関親信の子の親憲が景勝の命により水原家の名跡を継ぎ水原親憲と名乗った。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で戦功を挙げ、このとき将軍徳川秀忠より感状を賜ったが、この感状の宛名が「杉原」となっていたことから、杉原親憲と名を改めた。
江戸時代になると延享3年(1746年)幕府直轄地として水原代官所がおかれ、慶応4年(1868年)戊辰戦争により会津藩預りとなるまで続いた。
中世水原城の遺構は市街地化により消滅ているが、水原代官所が復元整備されている。