築城年代は定かではないが弘長元年(1261年)里見氏によつて築かれたと云われる。 山楯の前森氏が四代で没落したあと、奥州よりこの地へきた里見氏が楯岡城を築き、本城と名付けて本城氏を称したという。
本城氏が五代続いて没落すると、応永13年(1406年)に最上氏三代最上満直の四男満国が楯岡に住んで楯岡氏の祖となった。
楯岡氏は最上庶流として代々続いたが、六代楯岡因幡守満英は天童氏に従い最上氏に敵対していた。しかし、七代楯岡豊前守満茂になってからは最上氏に従い、最上義光の片腕として重用されている。文禄4年(1595年)には満茂が総大将となって仙北の小野寺氏を攻め、湯沢城を攻め落とすと、湯沢城主に任ぜられ湯沢氏を称した。慶長8年(1603年)満茂は由利郡に四万石を与えられ、慶長15年(1610年)に本荘城を築城し本荘氏を称した。しかし、元和8年(1622年)最上氏改易により満茂は上野国前橋藩酒井家にお預けとなり、寛永16年(1639年)に病没した。
楯岡城は村山市の東に聳える標高209.8mの楯山に築かれている。 現在は東沢公園の一部として遊歩道などが整備されている。
楯山は西楯山、中楯山、東楯山と三つの峰から成っているが、本丸は西楯山、東曲輪群が中楯山に築かれている。
主郭のある西曲輪群は山頂の主郭を中心に東西に伸びる尾根に段々と曲輪を連ねる縄張りで、東曲輪群との間、現在の七曲がりの道が上り詰める所に堀切がある程度で、これといって特色のない山城である。西尾根の先端付近には石積が残されているが、主郭付近には東尾根に少し石積された所がある程度で、これが城の遺構なのかどうかはっきりしない。
東曲輪群は中楯山山頂の曲輪を中心として同じく周囲に曲輪を展開するが、西下に一条空堀を設けている。
北麓にある湯沢沼の東側には祥雲寺(地図)があり、最上満国の墓がある。また、県道29号線沿いにある愛宕神社(地図)には最後の城主多田義賢の墓が残っている。
南麓の隣正寺の東隣にある「しろはと保育園」の南側に「楯山案内図」の看板があり公園の駐車場がある。
ここからの登山道は二つで、隣正寺の裏側から尾根伝いに西楯山に登るルートと、七曲コースで西楯山と中楯山の鞍部に出るコースである。前者は石積のある段々曲輪を見ながら登るコースであるが、道が悪く下草が良く茂っていて途中コースが分かりづらくなっている。後者は普通の登山道で簡単に登ることができる。
最寄り駅(直線距離)