建長年間(1249年〜1256年)に西根氏によって築かれたと云われる。
その後の動向は定かではないが、応永21年(1414年)最上氏四代最上満家の隠居城となった。
戦国時代には長瀞左衛門が在城して天童氏に属していたと伝えられるが詳らかではない。
天童氏が最上義光によって滅ぼされると長瀞城も最上氏の持城となった。 元和8年(1622年)最上氏は改易となり、山形藩鳥居氏、保科氏の所領となった後、一時天領となった。
寛政10年(1798年)武蔵国久喜藩主米津通政は、武蔵の所領六千四百石が出羽国村山郡へ移されたことから、久喜陣屋を廃して長瀞陣屋を築き長瀞藩となった。 長瀞藩は戊辰戦争で新政府軍に属し、庄内藩と戦いで陣屋や町を焼失した。版籍奉還の後、長瀞藩知事に任命された米津政敏は、藩庁移転を願い出て許され、上総国山武郡大網村の大網陣屋に藩庁を移し長瀞藩は廃藩となった。
長瀞城は方形の輪郭式の平城で本丸、二の丸、三の丸、四ノ丸まであったと云われている。現在の地図でも良く残されている水堀は二の堀で、この内側が長瀞陣屋であった。
長瀞城の散策路は随所に案内板と地図が設置されているのでわかりやすい。城の中心部に陣屋の案内板があり、そこから東へ続く道に大手の案内がある。
北西にある禅会寺は最上満家の菩提寺で墓が残り、山門は長瀞城(あるいは陣屋)の移築門とも考えられているがはっきりしない。
東側にある長瀞公民館に駐車場がある。
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