築城年代は定かではない。
享禄4年(1531年)浦上村宗が大坂の合戦で討死すると播磨国室津城を長男政宗が継ぐが、弟宗景と国秀が政宗と不和となり、宗景は天神山城を築き、国秀は富田松山城を改築して居城とした。
享禄5年(1532年)政宗は軍を起こし三石城を攻略した後、富田松山城に来襲し国秀は降伏した。政宗は松山城を拠点として片上に兵を出してきた宗景と退治したが決着はつかず、双方が軍を引き上げ終戦となった。
政宗は三石城と富田松山城に城番を置いていたが、政宗の勢力が衰退すると宗景の勢力の及ぶところとなり、浦上景行が城主となった。天正5年(1577年)宇喜多直家の台頭によって天神山城が攻略され浦上宗景は播磨へ逃走すると、松山城も宇喜多氏の手に落ちた。
富田松山城は片港の東に聳える標高209mの山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり、低土塁が巡る広い曲輪で、北西と南東に虎口を開く。虎口脇には軽微な折れがあり、横矢掛けを意識していた可能性もある。主郭の周囲には腰曲輪、帯曲輪が拡がり、大手と思われる西側に多く続いている。
城の切岸は岩盤を削ったようなところもあり、石積もところどころに確認できる。曲輪IXには小規模な井戸とされる遺構がある。堀は東尾根を遮断している堀切1のみであるが、ここも岩盤を削った堀切である。
虎口1から曲輪VIIIに伸びる通路もあるが、曲輪VとVIの間にあるAは上の帯曲輪からVとVIに分岐するような構造になっており、VIからはVIIやXIIIへ降りて行くルートがある。
下方の曲輪XとXIの間も虎口状で石を使っている。
主郭のある山頂の東側の標高196.6mの峰にあるのが東出丸で、土塁が巡っていたようであるが、今ではよく分からなくなっている。
登山口は北東麓にある大渕集落の再奥で、近くの運動公園に車を駐める事ができる。整備された山道が山頂まで続いている。
最寄り駅(直線距離)