天正8年(1580年)毛利氏によって築かれたと云われる。
毛利氏は宇喜多方の虎倉城主伊賀久隆を攻めたが「加茂崩れ」と呼ばれる大敗を喫した。これによって宇喜多方に備えるために築城したのが勝山城で、毛利譜代の桂源右衛門尉、赤川次郎左衛門、岡宗左衛門などが在番した。
勝山城は県道66号線と県道372号線が交差する地点の北東の丘陵に築かれている。以前は「舟山城」として紹介していたもので、南に勝山城を紹介していたが、岡山県GISの更新によって旧勝山城の位置は削除され、舟山城の位置が勝山城に改められたため、本稿もそれに従って変更している。
主郭Iとその南下を覆う帯曲輪II、東下の腰曲輪IIIで構成する。帯曲輪IIは南西と東側に張り出しが確認でき、不明瞭ながら低い土塁が確認できる。
北を除くほとんどの側面を畝状竪堀群で覆っているが、部分ごとに特徴がある。西側面の畝状竪堀群2は土塁が隆起するタイプの竪堀群、南西の畝状竪堀群3は一般的な竪堀群であるが、その上部は横堀であったと思われ、東端と西端部分は堀状の窪みが確認できる。その東側には一段高いところを起点とする三条の竪堀となる。この竪堀Aと畝状竪堀群2は横堀で結ばれ、その下方に畝状竪堀群3が存在していたものと推測される。
南東の畝状竪堀群4は一般的な竪堀群が多いが、東端の二条は土塁が隆起するタイプである。北側は尾根続きを堀切1で遮断し、その西側に竪堀一条、東側には三条の竪堀群が確認できる。
北の工場に入る道の一本南に林道入口があり、これを進めば北の堀切を経由して北端帯曲輪に祀られている神社の参道に至る。
車はJAの奥にある長田ふれあいセンターの駐車場を利用した。