詳細不明。城主は桑田氏と伝えられる。
『西備名区』では天文5年(1536年)に桑田式部少輔将能が城を構えたとする。桑田将能は丹波国桑田郡何郡の領主であったが波多野備前守との戦いに敗れて西国に逃れ、森脇山の城主箱田右衛門尉を追い落として城を構え、故郷を偲んで何鹿山城と名付けたとある。
何鹿城は福山市沼隈体育センターの東、標高100mほどの山に築かれている。西端に石鎚神社が祀られ参道がつけられているが、道は荒れ城内もほぼ薮に埋もれている。
南端最高所の主郭から谷を挟んで北へ伸びる2つの尾根に曲輪を設けている。主郭を含め開墾されていた痕跡があり、多少なりとも改変されていると思われる。
主郭は南端最高所Iで土塁はなく、北端付近は緩やかに傾斜し畑の名残と思われる溝がある。北へ伸びる尾根にはII、III、IV、Vと小さく段分けされた曲輪が続くが、概ね傾斜している。段差は高い所でも2mに満たず、概ね1mほどである。竪堀5は起点が曲輪IIに食い込むようになっており堀切を埋めた可能性もあるが、反対側には竪堀の痕跡は見当たらない。
曲輪Vより北側は自然尾根に近く浅い溝や土塁状の高まりも一部確認でき、北端には堀状地形9も確認できるが、明確な城域を示すような遺構は確認できない。
主郭から北西に伸びる尾根は先端に石鎚神社の境内となった削平地VIがある。この尾根はほぼ傾斜しており、途中50cmも満たない低い段差が2か所ある程度である。切岸加工も少なく谷側は急峻であるが、外側は竪堀の起点が曲輪面近くから伸びるほど切岸が不明瞭になっている。
主郭の南背後は大堀切3で遮断し、さらに南側に浅い堀切2と二重堀切1を設けている。また東西両側面には畝状竪堀群が確認できる。
西の石鎚神社参道を登るのがわかりやすいだろう。あとは谷筋を登るルートと東の谷から農作業のために作られたと思われる道が付いている。
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