元禄14年(1701年)水谷勝時によって築かれた。
水谷勝時は松山藩主水谷勝美の弟で、勝美が嗣子なく没して松山藩水谷氏が改易となったとき、祖先の功によって勝時に3000石が与えられ、旗本寄合として存続が許された。
二代水谷勝英は勝時に男子がいなかったことから、同族の小阪部水谷氏から養子となった人物で、元文5年(1740年)500石を加増され3500石となり、以降、布賀水谷氏は3500石の旗本として明治まで存続した。
嘉永元年(1848年)には成羽川の水運で発展した黒鳥に代官所を移している。
水谷氏は参勤交代を行わない旗本であったために通常領国に下ることはなく、文久3年(1863年)に水谷勝得が一回だけ布賀代官所を訪れている。
布賀代官所は旧布賀小学校のところに築かれていた。
敷地内に、布賀知行所跡地之碑がある。一部には石垣があるが、比較的新しい積み方で、すくなくとも元禄の頃のままではなさそうである。