永正元年(1504年)庄為資が福井孫六左衛門に命じて築かせたという。
元亀元年(1570年)庄勝資が城主のとき宇喜多氏に攻められ落城したという。衰退した庄勝氏は出雲へ逃れていたが、毛利氏と三村氏が敵対関係となると毛利氏によって呼び戻され、呰部、中津井のあたりを領有し高釣部城を築城したという。
丸山城は呰部小学校(閉校)の東背後に聳える山に築かれている。地元では天守山と呼ばれているようである。
大堀切6から西側が主要部で、最高所の主郭Iから西へ向かってII、III、IVと段曲輪が続き、その先にある曲輪Vは100mほどもある長い曲輪となっている。曲輪Vの南側面には武者走りがついており、その一角に谷から登ってくる道が接続している。このあたりが大手であろうか。
主郭の東背後に天守台と呼ばれる櫓台がある。このあたりの城では櫓台のような土壇は以外とと少なく珍しい。背後は大堀切6で北側面に1、2条の竪堀5、南に三条の畝状竪堀群3が確認できる。
曲輪Vの西端部分は南側に帯曲輪VIが付くが、この下方に六条の畝状竪堀群2が確認できる。ここから谷に筋に少し降りると水之手がありいまも水が湧いている。
大堀切6の先、南東に伸びる尾根には不明瞭な曲輪VIIがあり、南端に浅い堀切9が確認できる。 曲輪VIIの北端部は一段下がって大堀切6に面して土塁が付いているが、南端は竪堀7、北もややずれているものの竪堀地形8になっている。
小学校の谷筋を上がったとろに光合寺があるが、ここが庄勝資の根小屋とされ、西の尾根先に向かって段々になっている部分が福井屋敷跡とされるところであろう。
光合寺(無住)に駐車可能である。駐車場から少し戻ったところに山に入る道があり、すぐに分岐するが左側の谷筋を登る道を進む。谷の奥までたどり着くと一旦道が消えるが、もう少し右上の方に登って行くと、左上へ折り返して登る道が見え、それを登れば南端の堀切9のところに出てくる。
尾根先側からの道も光合寺近くのため池の北側から堀底道が続いている。
最寄り駅(直線距離)