築城年代は定かではない。城主は末次城主でもあった工藤治郎兵衛尉、高橋右馬允資高などが伝えられる。
宇喜多氏が毛利方から織田方になると、天正8年(1580年)宇喜多氏の武将が在番していた四ッ畝城を毛利の武将吉川元春が攻略し、馬屋原兵部大夫が在番した。その後、毛利氏と羽柴氏の和平によって宇喜多方に明け渡された。
四ッ畝城は4つの峰が連なる四峰山の中央の二つの峰に築かれている。
中央の鞍部を挟んで東西に曲輪群がある。鞍部の部分も削平してあり、南に虎口状の地形が確認できる。周囲の鞍部付近には人工地形がないので、これらも城にともなう地形と考えられる。鞍部から西曲輪群に通じる部分には2ヶ所の竪土塁があり、東曲輪群に通じる道も南側面に設けられ一部土塁状になっている。
西曲輪群は岩が多いこともあり最上段の部分は削平が曖昧で微妙な地形が多い。一段下がってL字になった曲輪W2が最も削平具合が良く、西端には土塁を伴う。西尾根側には短い竪堀状地形Aが残るが自然地形のようである。そこから降った鞍部に幅の狭い溝があり山道にはなっていないようなので堀切のようである。
東曲輪群は西曲輪群よりもよく削平されている。最高所はE1で城内側E2に向けて土塁を築いている。曲輪E2は広く微妙な段があり、東端には土塁を設けている。南端には虎口があり、そこから南側面に鞍部と通じる道があり脇に段曲輪群E3がある。
東の県道312号線と440号線の交差点から少し西に入った所から山道がある。山道は峰を迂回するように南側面を回っており高低差は少ない。道の右側に炭窯跡が確認できたら、その上の尾根に登ると西曲輪と東曲輪の間の鞍部に至る。
車は交差点南側の空き地に駐められる。