築城年代は定かではない。城主は毛利氏庶流の志道氏である。
志道氏は毛利庶流の坂広秋の四男元良を祖とする一族で、高田郡志道村を名字の地として志道元良と名乗ったことに始まる。
元良の子広良は毛利興元の嫡男幸松丸が夭折したとき、多治比にいた元就を毛利家家督に迎えた中心人物であった。
志道広良の次男通良は高橋氏滅亡後に石見国口羽村を与えられ、口羽通良と名乗り、毛利の重臣として活躍した。
志道城は標高320mの城山に築かれている。
主郭は最高所Iで細かく三段に削平され、北端は小さな土壇になっている。切岸は高く急峻でいまでも簡単には登る事ができないほどである。虎口は明確ではないが、東辺中央付近から曲輪IIに向かってスロープが伸びており、これが該当すると思われる。
主な曲輪は主郭Iから南東尾根に続く曲輪II、III、IVで、現在でも通路が残されている。南東麓付近は削平地VIからさらに段々に造成された地形が確認できるが、後世の改変のようにも見える。削平地VIを南に下ると横堀3になり、その上部には小規模な二段の削平地VIIがある。
主郭の北背後は変則的な四重堀切1で遮断してある。北後方にも緩斜面地形が拡がっているが城域ではないようだ。
主郭の西下は大きな堀切2で遮断している。堀底の幅が広く緩斜面になっていて一見堀切には見えないが、岩盤を削った地形で、南側は竪土塁のような感じで伸びている。
南西尾根には二段に削平された曲輪V1、V2がある。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』掲載図面ではここを主郭として描いている。V2から西の谷筋には段々に削平された地形が伸びているが後世の改変である。一番上の部分には大きめの石を積み上げているが、これも後世のものだろう。
登口は南麓西川工業の近くにあり道標が出ている。民家の脇から登って動物除けの柵を開けて山に入ることができるが、特に道があるわけではないので、適当に登っていけば良い。
車は南の宮崎神社近くにある「志屋地区ふれあい広場」のあたりに駐められる。
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