築城年代は定かではない。
はじめ阿賀氏の居城であったが、戦国時代以降、毛利家臣井上越前守光貞、子左馬え助父子二代の居城であったという。
城は国道54号線東側の標高484mの山頂にあり、城山は北と南に深い谷があり、東のみ尾根続きである。
主郭は山頂にあって南北に長く、南半分が土塁で覆われ、南東隅部に井戸跡が残るが、土塁は低く明瞭ではない。主郭から北へ二段、南へ一段の削平地があり、南側の小郭から東下の曲輪へ道が通じる。
東下の曲輪は南から東側にかけて土塁状の高まりがあり、北西に竪堀が一条ある。現在登山道は北と南から通じているが、どちらも曲輪を通って南の小郭へと通じる。
東下の曲輪から南麓への登山道を降りていく途中に竪堀状の溝が三本ほど確認できるが、竪堀かどうかの判断は難しい。一本はまっすぐではなく、ややくねっており堀底道のようにも見える。これを越えて鞍部に到達すると、南麓からの登山道を監視する位置に南側に折れの付いた土塁を設けた小郭がある。この小郭は平坦面ではなく自然勾配しているが道を監視するのには十分である。
この鞍部を越えて西側の頂部にもいってみたが、城郭遺構らしいものは見当たらない。
国道54号線沿いに登山道入口の道標がある。
最寄り駅(直線距離)