築城年代は定かではないが南方氏によって築かれた。
南方氏ははじめ本郷城を居城としていたが、中原城を築いて移ったという。
『毛利氏八箇国御時代分限帳』では南方宮内が安芸国高田、安芸国山県、周防国佐波、出雲国神門に合わせて960石余を領していた。
中原城は中原集落の北背後の山に築かれている。
南へ伸びる尾根の先端頂部を主郭とし、南山腹に曲輪群を展開する。曲輪には多くの石垣が残存しており、高いところでは2mほどの石垣を構築している。しかし虎口は明確ではなく、縄張は発達していない。
主郭Iは内部を小さく段分けして北端を最高所とする。一部に土塁があり、側面には石垣がある。
曲輪IIは主郭の南下にある小さく腰曲輪で側面に石垣がある。西に開口部があり、ここちら曲輪IIIと接続していた可能性が高い。
曲輪IIIは西尾根に構築された曲輪で東西に長く、側面に石垣がある。曲輪IIに向かって土塁状の尾根がスロープになり、一段高い所にも小規模な削平段がある。この北側面に竪堀らしき地形(竪堀群4)が確認できるが判然としない。
主郭部から南に下ると曲輪IVがある。ここも側面に石垣があり、曲輪の塁線には一部折れがあるが横矢を意識したとは言い難い。曲輪IVと曲輪IIの間の尾根は小さな岩場になっており、曲輪IVからは曲輪IIIを経由してIIへ入っていたと考えられる。
曲輪IVの南下に加工の甘い曲輪Vがあり、麓からの山道はこのVに接続している。
主郭Iから南東に伸びる支尾根に曲輪群VIがある。最下段に石垣のある曲輪VIがあり、主郭に続く尾根に小規模な段加工があり一部には石垣がる。
南麓の民家の方は城があるのをご存知であった。この民家の脇に南東の谷筋に入っていくところがあり、そこを入って少し登ると神社らしきものがある。この上から踏み跡程度の山道を登ると曲輪Vに至る。