詳細不明。『芸藩通志』には「伊屋城二所 野原山 槻木城 並に上瀬野村にあり、」とだけある。
『日本城郭大系』では阿曽沼氏の属城かとある。
伊屋支城は北に張り出した標高180mほどの山に築かれている。
最高所の主郭I1を中心に北尾根に東下に帯曲輪I2、北尾根に腰曲輪I3、西側面に帯曲輪I4、I5を配置する。曲輪に土塁はなく虎口も見当たらない。
南東背後の尾根には二重堀切1を設けて遮断している。その南側にも堀切8跡らしき地形があり竪堀が伸びている。
曲輪I3の北東側面からI2の東側面にかけて畝状竪堀群3、2が確認できる。北西側面には見当たらないが、アンテナ設置のために改変を受けているところに一条竪堀4があり、この部分に堀切か何かがあった可能性がある。
北西尾根は曲輪I5の下方に畝状竪堀群6がある。竪堀のうち二条は支尾根の両脇を伸びて側面に落とし込んでおり、この下方に小さく三段に加工された曲輪IIらしき地形がある。
北から西麓には瀬野川が流れていて急峻な地形にもかかわらず、山陽道があるため、これに備えて竪堀群によって堅固している。近くの榎ノ山城(下城)、遺構は消滅してしまったが三ツ城など、このあたりには畝状竪堀群を有する境目の城らしき城が点在しており、この城も阿曽沼氏の支城網の一つとして機能していたことが推測できる。