島津豊久は島津家久の子で日向国佐土原城主であった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で叔父の島津義弘とともに西軍に与して関ヶ原に布陣するが、西軍は戦いに敗れて壊滅となり、島津義弘と島津豊久は一路伊勢に向かって退却を始めた。島津隊は殿として長寿院盛淳や島津豊久らが奮戦、豊久は烏頭坂で奮戦し多良までたどり着いたが、白拍子谷で落命したと伝えられる。
『島津豊久奮戦の地』は島津豊久が殿となって敵と戦って烏頭坂(うとうざか)にある。『島津豊久戦死の地』とも呼ばれているが、豊久がここで討死したのか、あるいは多良まで逃れてそこで力尽きたのかは定かではない。島津豊久の墓は多良に残されている。