長寿院盛淳の墓(琳光寺)ちゅうじゅいんもりあつのはか
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長寿院盛淳は島津義弘の家老で、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では薩摩国蒲生の兵七十を率いて島津義弘の元に駆け付けた。西軍は戦いに敗れて壊滅となり、島津義弘と島津豊久は一路伊勢に向かって退却を始めた。長寿院盛淳は拝領の陣羽織を着て敵中に討ち入り、島津義弘の身代わりとなって討死した。このとき蒲生の兵十八人もともに討死したという。
長寿院盛淳の墓は琳光寺の境内南側にある。またお寺の南東にある大垣市上石津地域事務所牧田支店(小学校跡)の南東端に長寿院盛淳をたたえる碑が建っている。