築城年代は定かではないが沢氏によって築かれたと云われる。
宇陀三人衆とも称された沢氏は宇陀松山城主秋山氏、芳野城主芳野氏らとともに宇陀郡を代表する勢力の一つであった。
永禄3年(1560年)松永久秀によって沢城は攻略され、沢氏は伊賀に逃亡、沢城には松永久秀の家臣高山飛騨守友照が置かれた。この高山飛騨守の嫡子が高山右近である。
高山氏が城主であった時代には山城である沢城に居住しており、城内には教会も設けられていた。キリシタン大名として名高い高山右近もここで洗礼を受けている。
永禄11年(1568年)頃には松永氏の勢力が後退し、高山氏は摂津に移って和田惟政に仕えたため、沢氏が城主として復帰したが、天正13年(1585年)までには廃城となっていた。
沢城は伊那佐山の南方、標高538mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
大規模な山城で、山頂に広い主郭があり、そこから西に向かって伸びた3つの尾根に、二郭、三郭、北へ続く尾根には出丸を築いている。
主郭は一番藪になっているが、広く平坦で高い切岸が巡るが土塁は付いていない。北下から西へ伸びた尾根に続くのが二郭で、西端には大堀切を設けている。北西下に続くのが三郭とされ、先端は土塁を設けている。
主郭から北へ続く尾根にあるのが出丸で主郭との間を堀切で遮断している。出丸は北に続く多重堀切から東にかけて土塁を巡らせており、これは現在の登山道を眼下に見下ろす形で、もともとの城道であったと思われる。
沢集落と大貝集落からの登山道があるが、大貝集落から登るほうが現在は一般的である。
大貝集落のところから沢城登山口への道標があり、それをたどると山口農園に至る。登山口はこの農園のトイレの部分から山道があり、農園脇の道路に路駐して登る事になる。
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