築城年代は定かではないが南北朝時代頃に秋山氏によって築かれたと云われる。 秋山氏は神戸社の神主でのちに興福寺の被官となり、南北朝時代には宇陀郡で沢氏と勢力を二分する程の勢力を持ち、北畠氏の家臣として宇陀三将の一人に数えられた。
永禄3年(1560年)頃には松永氏に組みしたが豊臣秀長が大和国国主として入封すると追放された。秋山氏の後は伊藤掃部頭、羽田長門守、多賀出雲守、福島掃部頭と替わった。
福島氏が改易されると織田信雄が入封したが城は破却され松山陣屋が築かれた。
秋山城は標高471mの城山山頂に築かれている。国指定史跡として発掘調査が継続されているようであるが、五年前に訪れたときよりわずかに整備が進んだ程度で、あまり変わっていなかった。しかし、近年大雨による土砂崩れが発生し、曲輪の一部が大幅に崩落してしまったようで残念である。
本丸は山頂にあり、東に天守曲輪、西に御本丸を置く。天守曲輪の東端には天守台があり、本丸は西と南に虎口を開く。本丸の南下は帯曲輪で、東に大御殿がある。大御殿の南東に堀切を通路とした虎口があり、その先にあるのが二の丸で端に櫓台が付く。
西側から登る大手道は検出された石段や石垣があり、屈折して登っている。その脇には深い横堀が西側斜面を断ちきっている。
北西麓にある春日神社から整備された大手道がある。西側から神社へ向かう道は狭く、車を置くスペースがないが、東側から神社へ向かう道はやや広く車を置くことができる。
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