築城年代は定かではないが三方氏によって築かれたと云われる。三方氏は日下部氏の末裔で弘安8年(1285年)大屋荘下司として三方権守清行が出てくる。
天正5年(1577年)羽柴秀長の第一次但馬侵攻のときには三方正秀が城主であったが、三方城は落城し、羽柴氏の武将木村常陸介が在番したという。天正8年(1580年)の第二次但馬侵攻のときには三方正秀は羽柴方として水生城の戦いに参加した。その後、秀吉の鳥取城攻めにも宮部善祥坊に属して参加し、落城後に鳥取城修復に加わったが相役の恨みをかって岩井温泉に逃げたが、そこで謀殺され、その子孫は帰農したという。
三方城は南の山塊から北へ伸びた尾根の先端に築かれている。
南の尾根を大堀切で遮断して北側を城域とした城で、南端の堀切に面して大土塁があり、北に向かって小さな段差で曲輪が連なっており、一部に石積がある。北端から下は急斜面で植林された木々の間を登り降りするのが怖いくらいの角度であるが、一部に竪堀を落としている。
南背後を遮断する大堀切の南側も一段低く削り込まれているようであるが、曲輪という感じではない。
北東側の麓近くに愛宕神社が祀られている段の上が「御屋敷」と呼ばれ城主の館と云われる。
道はない。御屋敷から登って行けばたどり着くが急坂である。
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