築城年代は定かではないが山田氏によって築かれたと云われる。 山田氏は明徳年間(1390年〜1394年)頃に山田を領した山田左衛門尉を祖とするという。
「守矢満実書留」によれば、文明14年(1482年)に小笠原長朝が保科氏に奪われた藤沢城を取り戻すため高遠へ出陣したが、山田城を攻め落とせずに退却した。
山田氏は高遠頼継とともに、天文14年(1545年)に武田信玄に降ったとみられるが、天文18年(1518年)伊那衆が武田氏に叛き金沢峠で戦ったとき、山田新左衛門が武田氏と戦って討死している。新左衛門の子山田弥介は武田氏に従って二十騎の将となった。
山田城は三峰川の南岸、下山田集落の南側の山にあり、南の山塊から北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。
主郭部は空堀を挟んで東西二郭で西側が主郭になっている。主郭と二郭には一部土塁があり、主郭側の土塁上には神社が鎮座している。 主郭の北西下の山腹には数条の畝状竪堀群が残っている。
主郭にある神社の参道がそのまま登山道になっているが、入口が農道の先にあってわかりづらい。下山田区の地図に山田城が載っているので住民の方に聞くのが早い。入口は成就院・耕雲寺に入る道の一本東側で、防火水そうの標識が目印。普通車クラスの車であれば登山道入口付近に駐車できる。地図
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